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36-37●浦ノ内湾巡航船●[塚地休憩所東屋あった記事を転載]
高知新聞2008年(平成20年)1月5日(土曜日) ぶらり寄り道88ヵ所、36番札所・青龍寺(土佐市宇佐町)巡航船遍路から地域の“足”に 太平洋に延びる横浪半島に抱かれ、約十二キロの深い入江が続く半島北側の浦ノ内湾。その穏やかな内海を「ドドドドドー」と音をとどろかせ、五トン船が波を立てる。 マダイ養殖の作業場などを横目に湾の南北を縫うように航行。カニ漁の漁師も手を止めて船を眺める。 巡航船「くろしお」。公立の小中学校がない湾の南側の子どもたち約四十人を、毎日、朝夕に運ぶ。子どもらの呼ぶ愛称は親しみを込めて「ジュンコウ」。夕方には船内のいすが宿題を広げる机に早変わりする。 昭和二十九年から須崎市が運航し、今では地域に欠かせない“足”。その起源は、空海が半島に青龍寺(土佐市宇佐町竜)を建立した平安時代にさかのぼる。 青龍寺の田中義了住職(六五)によると、空海は寺を守るため、紀州から連れてきた大工ら「八人衆」をこの地に残した。当時は寺へ向かう橋や道がほとんど整備されておらず、参拝者らのため渡し船を出すように命じたという。これが巡航船や、かってあった「竜の渡し」の起源とされる。 空海も次の地(四万十町)へ向かう際、湾を船で移動、八十八ヵ所の中で、船で海を渡ることが許された唯一の場所ともいわれている。 ただ遍路は「歩く」イメージが強いためか巡航船を利用するお遍路さんはわずかに月数人。「本当の遍路道は海の上なんですけどねえ」と田中住職。巡航船は「遍路の足」から「地域の足」へ役割を移した。 寺を訪ねた帰り、南部洋稔さん(四七)=土佐市宇佐町井尻=が寺の石垣を修理していた。実は八人衆の子孫というが、「ばあちゃんは詳しい話を知ってたけど、おれはあんまり知らんで」とぽつり。つちの響きに、脈々と受け継がれてきた遍路の歴史が感じられた。(土佐、宮崎順一) [2010年 四国遍路みちぞい物語]
by mitizoi
| 2010-07-28 09:12
| 36-37
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