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54-55●越智孫兵衛通勝翁 越智熊太郎三渓翁 顕彰碑●[54から墓地を通る遍路道ぞい墓地より手前防方公民館前]
越智孫兵衛通勝翁は、寛文年中野間郷縣村の初代庄屋なり、当時は徳川幕政下で農民は生かさず殺さずの施策でその年貢上納制度も七公三民と非常に苛酷な搾取方法で農民の日常生活は筆舌に表せない貧窮の極に達し各地で農民一揆や直訴が続出し、その都度有能な人々の犠牲のみに終わり何等得る処無く権力の前に屈従を余儀なくされていた。 翁は村人の悲惨な生活状態を救わんと一計を立て折よく施工された松山藩の池普請に藩庁より各村に対して人夫の差出しを命ぜられた際村人を集めて孟宗竹の筒を渡し、明日は之に麦の粥を入れて弁当として持参するように申し渡した。当日昼食の際他村の人人は大きな柳行季の弁当を開き食せし中で縣村の人々は、竹の筒から麦の粥を飲んでいた巡視中の松山藩普請奉行が之をみて酒を飲んでいるのかと翁を呼んで厳しく咎めた、翁は憶することなく平素は稗の粥を常食にしているが藩が御普請の為本日は特に麦粥を持参している旨申し開きし具に村人の日常生活の苦境を説明した奉行も翁の誠実さに深く感じてか追って沙汰するとして帰藩した。後日松山藩主久松公より七公三民の年貢上納を特に縣村に限り、以後六公四民に免下げする旨の裁許を得た。 翁多年の悲願であつた農民救済はこうして一人の犠牲者を出す事もなく達成された村人の喜びや如何ばかりか後年全国的な享保の大飢饉に他村は多勢の餓死者を出したが縣村の人々は翁の献身的な努力の恩恵に浴し、犠牲者を出す事もなくこの飢餓を脱した事は伊予義人伝に明記されている通りである。 其の他翁は終生村人の生活の向上と福利の増進に意を注がれ数多くの功績を残し元文三戌牛年四月二日天寿を全うされた 以後村人は報恩の念去らず毎年七月七日墓前に参拝して法要を行い、不朽の功労に感謝を捧げ冥福を祈っている。 此度村人相集いで談合し一碑を建立し郷土の救世主庄屋孫兵衛公の遺徳を偲びその偉大な功績を永遠に讃える次第である<判明される資料に基く> 昭和五十一年八月吉日 旧野間郷縣村 現今治市阿方部落民一同 [熊太郎の碑文は略した 2003年 四国遍路みちぞい物語]
by mitizoi
| 2010-03-14 19:22
| 54-55
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