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32-33●浦戸一揆[高知市浦戸]
関ヶ原の戦後、遠州の山内一豊が土佐の国主になる長宗我部の浦戸城明け渡しに際し、頑強に抵抗したのが、一領具足らで重役家臣団に討たれ、世にこれを浦戸一揆という。 [2009年 四国遍路みちぞい物語] #
by mitizoi
| 2011-03-13 18:33
| 32-33
35-36●くらしの道 みちの移り変わり[塚地休憩所]
この塚地越えは、往事の商業の道であり、また漁村を結ぶ産業文化の道でもあった。 遠い昔、宇佐で造られた塩は、この峠を越えて穀物と交換され、郷と浦の人々を結ぶ生活道でもあった。 近時の車が発達するまでは、通勤の道であり、宇佐の方面に勤める人たちはよくこの道を越えていった。特に竜の不動祭や大相撲、潮干狩り、海釣りなど高岡方面と宇佐を結ぶ最短の要路であった。 明治時代の終わりに中島から新居を経由して宇佐に通じる郡道が開通し、主要交通路として確立するに従って、塚地峠を行き交う人の数はだんだんと減っていった。戦争、自動車交通が、普及すると、この道は徒歩のお遍路やハイキングの人たちの道となった。 その一方で昭和三十三年の土佐市設置の際には塚地坂トンネルの建設構想が挙げられるなど、人々の心からこの塚地越えの道が忘れられることはなかった。 平成の時代になって、現代の科学技術の力により、この道はトンネルという形で再び私達の前に帰ってきた。全長八三七・五mのトンネルの開通により、峠をわずか二分で越える(通り抜ける)ことができるようになった。 ※地元の人が東屋や周辺を整備していて、清水を引き水車を回している。「大師の泉公園」と呼ばれている。 [2010年 四国遍路みちぞい物語] #
by mitizoi
| 2011-03-13 18:32
| 35-36
35-36●震災復興記念碑[県道23号線]
忘れていませんか、あの日のこと 右の碑は昭和21年12月21日に発生した昭和南海大地震につて、 その惨劇と復興の様子を記したものです。以下はわかりやすく内容 をまとめたものです。当時の惨状を忘れることなく、津波に対する 心得を持ち来たるべき南海大地震に備えましょう。 ◎発生時間 昭和21年12月21日午前6時20分 震源地 室戸岬南方140キロの海底 振幅47 惨状 天鳴り、地裂け、家倒れ、瓦飛び、驚いている間もなく、 津波が襲いかかり宇佐地区一面海となり、男女は狼狽し、お年寄り や子どもは泣き叫んでいた。津波が入ること7・8度、特に3度目 は高さ5メートルにおよび、前回から20分後に山麓に達した。 ◎被害状況 家屋の流失・倒壊(319戸)、半壊(323戸)その他 床上浸水を含め全戸の8割2分にあたる1,320戸が被害を受け、罹災者数は6,250人。田畑の消失(155反)、陥没地(195反)、浸水を含めて農地の9割が被害を受ける。そのほか、船舶流失300隻、崩壊橋梁6カ所、崩壊道路3,150メートル、家財の損失に至っては算定しがたい。人の被害は、死者行方不明者各1名のみで、□□から言い伝えられている「欲を棄て、逃れた者は命助かり」と、犠牲者の僅少はこの戒めによる。 (応急支援復旧支援は略す) [2010年 四国遍路みちぞい物語] #
by mitizoi
| 2011-03-13 18:27
| 35-36
37-38●御賽銭御礼[伊与喜駅手前、国道56号線]
№9 お立ち寄り頂きまして有難うございます。 早いもので、このお地蔵様を建立し、9年目をすぎました。 例年通り、遍路有志一同として、全額ユニセフ基金に寄付させて頂きましたことをここにご報告いたし、皆様の善意に心より御礼申し上げます。 又この一年、地元黒潮町不破原の青木照男様にお地蔵さんをお守り頂いていますことに感謝申し上げます。 今年は、皆様に善い風が吹きますように、ご祈念申し上げます。 合掌 平成22年1月吉日 お四国遍路有志一同 ※配布用紙に金額も記載してあったが転載せずに廃棄してしまった。 [2003年 四国遍路みちぞい物語] #
by mitizoi
| 2011-03-13 18:26
| 37-38
37-38●幸徳秋水につい[四万十市立郷土資料館]
◎幸徳秋水 「自由」・「平等」・「博愛」という理念に貫かれた秋水の生き方は日清・日露戦争の勝利によって「大国」になりゆく日本の別の姿をあぶり出しています。 激しい弾圧にもかかわらず彼の社会主義者としての活動は、日清戦争後に発生した貧困や労働争議などの社会問題がいかに深刻であったを示しています。また彼の非戦論は、戦争を主導する人たち への批判だけではなく、日清戦争後の苦境から逃れる為に、日露戦争を熱狂的に支持した民衆にも向けられました。民衆におもねる事の無いこの徹底した平和主義は、今日においてもなお色褪せていません。 大逆事件は、打ち続く弾圧により追い詰められた一部激派の行動を理由に、社会主義者を一掃しようとする政府によって作りあげられました。その取り調べと裁判・刑の執行の全プロセスは、被告人の人権を全く無視するもので国際的な批判を受けました。 1961(昭和36)年1月18日、死刑判決から無期懲役に減刑され仮出獄していた坂本清馬と、刑死した森近運平の遺族が無実を訴えて再審請求の申し立てを起こしましたが、この請求は棄却されました。しかし、新資料の発見や学問的研究により、大逆事件の真相も次第に明らかになり、秋水出身地の中村市議会は2000(平成12)年12月、「幸徳秋水を顕彰する決議」を採決しています。 ◎日露戦争に対して非戦論を唱える 日清戦争後、政府は、露・仏・独による三国干渉を理由に世論を対露強硬論に誘導しました。世論を戦争熱に駆り立てるのに力があったのは新聞・雑誌です。日清戦争によって疲弊していた日本が、 国力・軍事力において圧倒的に不利であったにもかかわらず開戦にふみきるのは、この国民の戦争への熱狂でした。そうした中にあって、非戦論を展開した数少ない新聞が、秋水や内村鑑三の所属して いた「万朝報」でした。 ところが1903(明治36)年10月8日、ロシアが満州から撤退する期限を過ぎても撤退しなかったため、世論はいっそう主戦論に誘導され、ついに「万朝報」も営業主、主戦論に舵を切りました。秋水たちは「万朝報」を退社し、1か月後の11月15日週間「平民新聞」を創刊しました。そして日露開戦が迫った翌年1月17日付同紙に、秋水は「吾人は飽くまで戦争を非認す」を掲載しました。以後、日露戦争期間中を通じて非戦論を主張し続けました。 ◎幸徳秋水絶筆 やれ成功だ、やれ失敗だ、そんなちっぽけなことなど問題にせぬがよい。そんなことより大切なのは、古今を貫く意気を滋養することだ。生だ死だと騒ぐけれども、人は生まれるから生まれるのであり、死ぬるから死ぬるまでのことに過ぎぬ。観じてここに至ると、身は獄中に在っても、その庶民たることに寧ろ誇りを覚えるのである。 [2010年 四国遍路みちぞい物語] #
by mitizoi
| 2011-03-13 18:25
| 37-38
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