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88-1●森権平の墓[東かがわ市白鳥町 海沿い 権平庵]
月山宗薫禅定門 仙石森権平久村 天正十二年七月十九日没 当所は、仙石森権平久村討死せし地なり。 幼少、森権平は、森志摩守一族と淡路島の城主仙石権兵衛秀久との盟約により、人質となりて仙石家に預けられ育った。秀久は甚だ寵愛し、元服するに及んで仙石の姓を授け、久の一字を譲って、仙石権平久村と名乗らせた。 土佐の長曽我部元親、讃岐平定の野望のため、兵を東讃に進めしとき、虎丸城、三好の援軍として、仙石権兵衛秀久自ら兵二千余人を引きつれ、海路引田の浦に到着し引田城に入る。直ちに森九郎左衛門村吉(権平の父)に命じ、与治山より土佐方の兵力を伺はせしところ、その兵力一萬余人という。 仙石方寡勢のため、手兵を三手に分け、仙石勘解由、仙石覚右衛門、仙石権平を夫々の将として、引田中山周辺に伏せおき、土佐方の進攻を奇襲を以て之を攪乱し大勝す。土佐方騒然として、与田口まで敗走するも、数倍する兵力に次第に逆襲され、やむなく、中山道に引き戻す。 仙石権平、このとき十八才なれども、大剛の上に奇才に富む若武者なれば、味方の引田城に退くを助けんとして、ふみとどまり、地の利を計りてわが兵を下知し、縦横無尽に奮戦し敵をひるます。手兵僅かとなり自らも退かんと決意せし折、土佐方稲吉新蔵人と名乗る若武者馳せ来れば、権平、紅梅●毛の馬を駆使して立向い、馬上にて太刀打し引組んで落ち重なり、互いに深手を負う。無念なり。権平には、続く兵なく、土佐方の兵多数加勢し、遂に討死す。 鳴呼!!若武者権平の最期誠に壮烈なり。人々感服してその霊を弔う。のち墓を築き石塔を建て今日に及ぶ、伝えて、墓に霊妙なること多く、里人に勿論のこと、遠くより詣ずる者散知れず、騎乗して通る者必ず下馬し礼拝せり。 もののふの 二度の懸(カ)けして 権平は 陣の引田に 名のみのこしつ その昔、詣でし人の墓に手向けたる短冊の一首なり。 宣なる哉。森権平の名声、とこしえに消えることなし。このたび、権平庵改築落成を記念し、全讃史等の諸文献、当庵秘蔵の、仙石権平木像之 記、古老並に権平ゆかりの人びとの見識など選択し、ここに碑を建て、後世に伝う。 昭和五十四年十月吉日 [2010年 四国遍路みちぞい物語]
by mitizoi
| 2011-01-27 23:28
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