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59-60●出張橋でばりばし●[遍路道沿い]
この川はお大師さん川または、真手川という。ここにかかっていた真手川橋を古くから出張橋と呼んでいた。 慶長六年(今から三百九十年前。一六〇一)三芳村(中村東・中村西・黒本村)は大洲藩の領地であった。そのため、毎年年貢の検地収納、運搬などで代官派遣が行われた。大洲藩としては、遠隔地のため色々と不便を来していた。 寛永十一年(一六三四)松山二十四万石に蒲生忠知が封じられた。しかし忠知は参勤交代の途上急病に罹り死亡した。 忠知には後継がなくお家は取り潰し、領地は幕府に没収された。その後一年間は大洲藩預かりとなった。 大洲藩としては、この際、不便な飛地問題を解決したく、幕府に願い出た。それは松山藩と大洲藩の領地交換である。松山藩に行くのが、一万三千二百八石、大洲藩に行くのが、一万三千四百七十二石である。 幕府は検討の末、判断し許可を与えた。この年を最後に三芳村の大洲藩代官所時代の出張は終った。 その名残として、出張橋の名が今に伝わっている。 翌、寛永十二年(一六三五)伊勢桑名城主松平定行が松山十五万石の城主となった。 (三芳村が天領となったのは、明和二年(一七六五)である。) 三芳公民館 社会福祉協議会三芳支部[2010年 四国遍路みちぞい物語]
by mitizoi
| 2010-09-02 01:27
| 58-59
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