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43-44●二宮敬作翁 碑文の解説●[43番から下り道、雨山公園内]
二宮翁はその名を敬作、号を如山と言った。文化元年伊予西宇和郡磯津村に生まれ、父は六弥、母は茂と言い、家は代々農業を営んでいた。文政二年十六歳の時、志を立て長崎に遊学し、同六年蘭医シーボルトに師事した。以降六年間、水草学、理学を学び大成する。 富士山の高さを我が国初の洋式による測量をなし、又植物の新種を発見するなど、シーボルトは著書の中に、「ケイサキー」としてその名を後世に伝えている。 シーボルトたまたま罪を得て投獄され、その罪門人に及ぶ。翁は獄中、進んで師のために大いに弁護につとめた。シーボルトは、 二年後許され、国外に退去するに際し、娘イネの養育を翁に頼んだ、翁快諾して彼女の養育に専念し、我が国初の女医に育てたのである。 天保四年三十歳、宇和郡卵之町に医業を開く、藩主伊達公、翁を藩医に推せられる。翁病人に懇切丁寧、貧窮者は金を取らず皆感涙したという。嘉永初年旧友高野長英脱獄し、助け翁に求め来町する。翁彼を自家にかくまいひ護すること二回に及んだ。安政三年翁再び長崎に赴き、子弟に蘭学を授ける。門人雲集して教えを受く。同年シーボルト再び来朝、幼女イネの成長を見、翁の恩に感謝する。文久二年翁の病繋り五十九歳で没した。長崎の晧臺寺に葬る。大正十二年朝廷翁の功を追賞し、正五位を贈られる。翁天資英遇、衆に抜きんで小事にこだわらず、人を愛し世を憂うるという烈士の風あい、唯単にすぐれた医者というだけの人物ではなかった。 東宇和郡医師会は、翁の名を不朽として後世に伝えるため此の碑を建てた。 宇和町教育委員会 [2003年 四国遍路みちぞい物語]
by mitizoi
| 2010-03-14 20:24
| 43-44
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